王子の住む大きな城には誰もいない。正確には生きている者が一人もいない。
先代の王である父は、一国を統べる王でありながら、同時に偉大な発明家でもあった。
その父が亡くなったのがおよそ8年前。城には亡き父の遺した沢山の発明が今も機能している。
朝の8時には温かい朝食を、夜の7時には美味しい夕食を作るコック、毎日新しい物に代えてくれるメイド、家庭教師、清掃夫など…。
それらは全て父が作ったロボットだ。王が亡くなった後、たった一度もネジも巻いた事のない故障知らずの彼らは毎日よく働いた。
王子は走った。あのブナの木が見えなくなるまで。バラの香りで息が詰まりそうな速さで庭を駆けた。
そして、自分の部屋に入るなり、鍵をかけた。メイドや執事は一度命令すれば部屋に入ってこないので、もちろん誰も入って来るはずがなかった。
が、鍵をかけた。一人になりたかった。
椅子に座った王子は、机に突っ伏して泣いた。机の上に次々と大きな水溜りが生まれた。王子は誰にも聞かれないように、声を殺して泣いた。
誰も聞くはずがないのだけれど…。
王子には解った。あの女の子と出会った時、彼女と自分は「同じ」だと。だけど、僕は不用意に外へ出るべきではなかった。
僕には帰る家があって、ただ守られていただけの臆病者だ。彼女を受け止めてあげられないのなら、彼女を抱きしめる資格はない。
彼女を傷つけてしまった。僕はもう何もいらないのに。
宝石がついたきれいな王冠も、子供の遊び心をそのまま具現化したような発明も、使い切れないほどの財産も、忠実なメイドもコックも、カラクリのような楽しいお城も。
欲しいものは…。
僕は一人だ。おうじは気付いてしまった。父が亡くなり王位を継いでこの城の主となっても、彼は自分を王子のままだと思っている。
彼の体は8年前から成長が止まり、10歳のままだ。
王子は泣き続けた。ドアを叩くおとに顔を上げ、ドアノブを捻るとメイドが立っていた。
「ご主人様、夕食のご用意が出来ました。お持ちしましょうか?」
そんな決められた台詞にため息がこぼれた。
「食べたくなったら食堂へ行く、そうコックに伝えておいて」
そして王子はメイドの唇へ手を伸ばし、それに触れて自分の唇を触れさせた。温もりなんて感じなかった。
遠い記憶のヒトの温もりを感じてみたかったのだ。メイドは王子に身を預けた。彼女に“ヒト”の感触はあったのだけど、やっぱり彼女に“人”の温もりは感じなかった。
彼は両手で彼女の胸を突き離した。少しバランスを崩した体を戻し、「失礼しました」。
失礼したのはこっちの方なのに何故謝るのだろう。メイドだから謝ったのだろうか?きっと女だから謝ったのだ。
赤いドレスを着た女の子にこんなことをしたら謝るのだろうか。彼女は壊れてしまいそうな気がする。